当寺は、平安時代中期の長徳四年(998年)に開山したといわれる。

以後、鎌倉時代から戦国時代については不明であるが、一説には、三学坊と称する修験の寺であったともいわれている。

三学院の中興開祖といわれているのが宥盛(ゆうせい)である。宥盛は、関東の真言宗を発達させた印融(いんにゅう)の法脈を継承し、徳川家康の帰依を受けた人物であった。

以後、江戸時代を通して関東七箇寺として重きをなし、さらには真言宗智山派の関東の学問寺としての十一談林の一角をなし、多くの学僧が集まり、優れた僧侶を輩出した。

江戸時代には、伽藍も整備され寛文年間から元禄年間(1661年~1704年)までには大体できあがっていたと思われる。

しかし、享保十年(1725年)をはじめとして度重なる火災被害にあっており、仁王門のみが江戸初期のものといわれている。

このことは、昔話として「火伏せ地蔵さん」「仁王門のリュウ」などに伝わっている。

◇札所
宝永二年(1705年)に塚越村(蕨市)の高橋休山が、二世安楽のため、各寺の寺号・院号を糺し、作仏を選び、三十三ヶ所の御詠歌を作り「足立坂東三十三ヶ所」を定めた。

お寺の範囲は、大宮から始まり、浦和、川口、戸田、蕨、鳩ヶ谷、東京都北区に及び、十二年ごとの午年の本開帳、丑年の中開帳は、今日でも巡拝者でにぎわっている。

三学院は、第二十番札所となっており、その御詠歌は、
はなを見よ  ついにこの身は  極楽寺
都卒の峰の  あめのめぐみに
である。

総門の前には、「足立坂東第二拾番 三学院」と刻まれた寛政十二年(1800年)銘の市指定文化財「梵字馬頭観音塔」がある。
その他、
「新四国八十八ヶ所  第三十番」と刻まれている「弘法大師供養塔」
「北足立二十一ヶ所  第十九番」
「足立十三仏     第十一番」と明治時代は札所めぐりが盛んではあったが、今日は活動されていません。

◇玄奘三蔵仏舎利殿
「西遊記」に登場する玄奘三蔵法師はつとに有名であるが、この三蔵法師の霊骨が、昭和十七年(1942年)当時南京に駐屯していた高森部隊による道路工事の作業中に偶然発見された。

それは、その副葬品などから、三蔵法師の霊骨と確認され、昭和十九年の十月に、南京郊外の玄武山に建立された塔に、納められた。

その際、日本仏教会の代表として参列していた三学院前住職・倉持秀峰氏に、国民政府から霊骨の一部が贈与された。

贈与された霊骨は、日本仏教会の本部が置かれていた芝増上寺に安置されていたが、当寺空襲の危険から、三学院に一時移された。

しかし、戦争の状況悪化にともない、三蔵法師が唐の長安に建立した大慈恩寺と関係の深い岩槻にある慈恩寺に安置された。

戦後、霊骨はそのまま安置され続け、昭和二十五年(1950年)には、「玄奘塔」が建立された。そして、昭和三十年(1955年)には、三学院より霊骨の一部が台湾に贈与されている。

 平成二年(1990年)には、本堂東側清浄地に「玄奘三蔵法師仏舎利殿」を建立し、御堂内金亀舎利塔に頂骨が奉安された。

霊園内ギャラリー- Photo Gallery -

名称金亀山 極楽寺 三学院
所在地蕨市北町3-2-4
霊園形態
寺院墓地
宗教・宗派真言宗 智山派
本山京都 智積院
宗祖弘法大師 (空海)
開山長徳四年(998年)

おすすめ情報

三重塔
平成十年十月十日、開山一千年記念として建造された。

地蔵堂
子育地蔵
元禄七年(1694年)に当寺第十一世住職の秀鑁が中心となり造立したものである。

目疾地蔵 万治元年(1658年)に念仏講を結んだ13人が人々が「この世」と「あの世」の安楽を願って造立したものです。

目に味噌を塗ると目の病気が治る、目の病気にかからないと言われています。

六地蔵
江戸時代初期の寛文~元禄年間(1661~1704年)にかけて造立された石造物。

石仏はいずれも基礎の上に一石から蓮台と地蔵菩薩立像を丸彫りにしており蕨市内にある六地蔵の中で最古最大。

地蔵菩薩が六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に分身して人々を救済する姿を表しています。

お知らせ

アクセス情報

所在地:蕨市北町3-2-4

電車またはバスでお越しの方
JR京浜東北線「蕨」駅より 徒歩16分

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