今から560年程前、応永33年(1426年)の正月のある夜のことである。
武蔵野国一ノ宮、氷川大明神(現、氷川神社)の神主、岩井常陸介が不思議な夢を見た。白髪の老翁が枕元に立って、
「いま社頭に一人の高僧が仮寝の夢を結んでいる。この方は稀有な善知識であり、高僧である。よって、この方をながくこの地にとどめて布教せしめよ、西方の観音堂に案内するがよい。」といい終わると消えた。
神主は目覚めて、その夢か幻かがあまりにもまざまざとしているのを不思議に思い、起きて社頭に行ってみた。
と、まさしく一人の僧が社殿の回廊で安らかな寝息をたてているではないか。
この寒夜に布団もかけずに安眠できるとは、よほどの修行をつんだ傑僧にちがいない。

この僧こそ誰であろう、曹洞の巨匠、月江正文禅師であった。神主は月江正文和尚を起し、自分の屋敷に招いて厚くもてなした上、
夢のお告げの話をして、この地にながくとどまるよう懇情し、翌日西方にある観音堂に案内した。

時の領主、金子駿河守大成公は、寺号を日頃の守り本尊聖観世音菩薩のお経「観音普門品偈」の普門をとって普門院とした。
これが古文書に伝わる普門院のはじまりである。

当山第四十二世阿部道山大和尚は昭和十六年(1941年)に小栗上野介の事蹟を詳しく研究し、伝記として世に問うたのである。
この著書は、天皇、皇后両陛下にも海軍省を通じて献上され、御台覧の栄に浴した。

海軍が推挙したのは、上野介が逆賊ではなく、日本海軍の生みの親であり、近代日本の黎明を担う愛国心であったことがこの著書で
立証されたからである。文豪井伏鱒二氏は、「本日休診」などの小説で知られているが、この阿部道山和尚をモデルに
「普門院さん」という実名小説を昭和二十二年(1947年)に発表している。
内容は、道山和尚が上野介の首を切った実在の人物を鎌倉に訪問し詰問する情景がえがかれている。


井伏氏は、この小説が生まれたいきさつをこうかたっている。
「私が戦争中マレーに徴用されていたとき一緒にいて仲がよかった人が阿部道山住職の甥で、戦後もよく二人で飲みました。
その人から「小栗上野介正伝」を貰い、興味をもったので、小説のしたわけです。
冤罪を晴らそうと熱意に燃える住職の姿を横から見た眼として書いたものです。」

霊園内ギャラリー- Photo Gallery -

名称大成山 普門院
所在地さいたま市大宮区大成町2-402
霊園形態寺院墓地
宗教・宗派曹洞宗
本山永平寺(福井県)総持寺(横浜市)
宗祖
道元禅師

おすすめ情報

小栗上野介招魂碑
幕末の英傑小栗上野介忠順公のために檀家と総代が苦労と努力で建てた碑である。

小栗上野介は文政十年(1827年)江戸に生まれた。2550石の幕府直参である。
万延元年(1860年)34歳の時大老井伊掃部頭から日米通商条約の遣米使節の一員(目付け)として
アメリカに派遣された。帰国後は、外国奉行、勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、海軍奉行と
役職を歴任した。

慶応四年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸へ逃げ帰った将軍徳川慶喜に対し、
主戦論を強硬に主張して、その職を解任された。この時小栗上野介は勘定奉行兼陸軍奉行の要職にあった。
逃げ帰る途中、同家先祖の墓がある普門院に立ち寄り、大猷和尚に我が身の万一のことを憂慮、
永代供養料五十両を納めて立ち去った。
この時、伝来の具足、信国の名槍、同家始祖・忠政の画像も同時に和尚に託していた。

夢違い観音像
「二度と経験したくないこと、思い出したくないことや、いやな夢を見たときなど、
現世に生きる人間を悪夢から救い、二度と恐ろしい目に遭わぬよう私たちを見守っていただきたいのです。
それがこの観音さまです。」

この「夢違い観音さま」は、法隆寺白鳳時代の作の奉安を原点とし、近年には九州の知覧の特攻隊基地や、
その他同じ不運に遭われたりしたところなどには、同じ思いで和平を願う人々のために建立されて
人々に安らぎを与えて下さっています。

当寺にては、この度、製作者菊地文子氏のご縁により安置できることになりました。
永く礼拝する人々を見守っていただきたく今般建立に当たり、各ご家庭の無事を冀い、
悪夢を見たときはすぐに参詣しお祈りして参拝されますことをおすすめします。

お知らせ

アクセス情報

所在地:さいたま市大宮区大成町2-402

電車またはバスでお越しの方
JR京浜東北線「大宮」駅より 徒歩15分

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